一言03。亀万年、鶴千年、人百年。

人生100年時代到来、いよいよ、人間も長寿の仲間入りである。

だが、人の五感は、100年はとてもとても維持できず歳を重ねるごとに失われていくらしい。

先ず、視覚が12、13歳で、聴覚は15、16歳で、30歳も過ぎると嗅覚、中年では味覚が、それぞれに半減し始める。そうした中で最後まで健在なのが触覚、60歳過ぎても感度は維持されるとか。

今回のコロナの被患者は臭覚と味覚を奪われると言う。

さらに感染予防でソーシャル・デスタンシンングが日常となり、聴覚と視覚を老いたる我らの最後の砦、触覚すらも覚束ないものにした。

このウイルス騒動の最中、いつも元気な幹事役を務める友が老い先短いお互いの安否を心配して、無謀にも定例の顔合わせ会の実施との連絡がきた。

その会合は、当然ながらソーシャル・デスタンシングを遵守した工夫されたものであった。

先ずは、会合場所も歩きか自転車、あるいは家族の者の手を煩わせ車での送り迎えが可能なところとなる。それに、いつもの飲み屋は当然駄目となる。

そこで、会合場所が、各人が便利な近くの公園となり、それに時間も人の姿がまだらな早朝。各自持参の缶ビールとピーナツ付きの“おにぎり”の工夫に満ちた朝食会となった。

それでも、嬉しい。

家族以外と顔を合わせ話すのは久ぶりのことと、早々と決められた時間より小一時間早くに、到着した。おやおや、皆なすでに総揃である。

当然、全員、顔をマスクで覆われ隠されて、現れた。

これでは視覚の定かでない我ら、お互いに友の表情を読み取れずに余計心配となる。

それに追い討ちをかけているのが、濃密接触の自粛。唯一確かな触覚を働かせて、手を握り合い、肩を抱き合い、久々の再会の喜びことも叶わず、ヤァと2m先からの手を挙げての挨拶となる。そうして、ハイタッチが叶わず武漢タッチと試みたが、肝心な足が上がらない。いやはや、散々な再会の挨拶である。

交わされる言葉もマスクを通しの声。ガタがきている聴覚を働かせ耳に手を添え、2mもの先から言葉を必死に追うはめになる。

“見えない”、“聞けない”、“触れられない”の三重苦の散々な朝食会。

だが、不思議なもので、ほんの10分も過ぎには友が漂わせる雰囲気で、友の全てが感じ取れ、友の健やかさが感じとれたのである。

このウイルス禍、便利な日常で使うことがなくなっていた“第六感”を呼びも出したようだ。

この朝食は大いに華やいだ楽しいものとなり、お互いに健やかでの、再会を祈って早めの散会となった。

このコロナウィルスの恐ろしさは、臭覚、味覚そして、触覚、視覚をも奪い、聴覚も十分には使えなくする。人と人との感情の交流すら遮断する恐ろしさがあることである。

だが、五体健常であれば、たとえ5感全滅であろうが、第六感の助けを得て、親しい愛しい人とは、いつでも心を通わせ幸せで居られるのである。

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