あるカフェでの話である。
このカフェは書籍販売も兼ねた、今流行りのカフェ。コーヒーと本を静かに楽しむ、その空間を縦に横切るエスカレーターが、おなじみのお喋りをしている。
選曲に心配りを感じさせるBGM、レジでの抑え気味の客とのやりとり、常連たちがかわす気持ち良い朝の挨拶、そうした朝の音に遠慮なく流れ来る無機質な機械のアナウス。機械は喋ってはいけないのである。
ある日、突然に、“そいつ”が沈黙した。驚きである。
はじめは、我が目を否、我が耳を疑った。壊した右耳が感染し左耳もついにシャットダウンかと絶望しかけたのだが、それは空耳ではなかった。
喋っていないのである。沈黙したのだ。感激、快挙である。
当然、エスカレーター近辺の椅子が、早々と埋まるようになった。
昨今、バスや電車で過剰なまでになった機械と人による繰り返されるアナウンス。さらに、不気味なのは、深夜人一人いない無人の地下の駐車場での機械が、眠気を吹き飛ばす元気な大声でお喋りする。
機械化も間違えると不気味な世にする。とんでもない落とし穴があるのである。
もう十分に人は理解しているのである。機械の喋りを“加える”のでなく“無くす”。それだけで、ことはうまく運び人は安らぎ幸せになることもあるのである。
私は今、静かになった朝の幸せを堪能している。
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