一言04。撮影。

新年の混雑を恐れて、この暮れの大晦日に明治神宮を参拝した。

このタイミングでの参拝、思いの外、混雑もなく的をえたものになった。
神宮の森、造成して100年とは思えないほどに鬱そうとし、見事に都会の騒音を遮断し、小鳥の囀りに満ちた鎮守の森である。

今回の参拝のもう一つの目的は、その森の入り口に、神宮建立100年を記念して開館した、新国立競技場の設計者、隈研吾氏の手による“明治神宮ミュージアム”に立ち寄ることであった。

彼らしい木を自在に操ったその建物に収められ展示されている、明治天皇と昭憲皇后がお乗りになった六頭曳儀装車を見るのが、お目当てである。

期待を裏切らない繊細な細工に、思わず記念にとスマホに収める。当然、他の観客の邪魔にならないように、シャッターもライトも消して、遠慮がちの撮影である。

だが、どうだろう。係りの者が慌てて小走りで駆け寄り、撮影がダメであることを告げられた。

確かに、混雑した会場でのフラッシュやシャッター音は他の見学者の邪魔になる。そうした配慮を求めれば良いのである。

だが、何故に撮影自体を禁じるのだろうか。

展示作品を痛めると言うのか。肖像権の権利保護なのか。それとも、絵葉書が売れなくなるのかと勘ぐりたくもなる。いずれの理由にしても、それを禁じる理由にはなり難い。

そうした一方、この写真は昨年の夏の旅で、アムステルダム国立美術館で何のお咎めもなく私が撮影したもの。ご存知のように、オランダ黄金時代の画家ヨハネス・フェルメールの “牛乳を注ぐ女” 。名画中の名画である。この名画の撮影では、なんのお咎めもなかった。

既に、オリンピックまで半年しかない。いまやインスタ映えの時代。大いに撮影させSNSで拡散させ、多くの新しい見学者を呼び込むべき。観光政策を叫びながら、この杓子定規の相変わらずの役所仕事である。

いよいよ、小言、文句の多い老人の様を見せ始めたのかと、いささか、恥じ入りながらの愚痴、一言である。

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