今、一人ぶらりと出かけるゴルフが増えた。
友としめしあわせてのゴルフが面倒になった。ますます、我儘な自分が出始めたのである。そんな折は、当然、プレーする仲間が毎度変わる。
ある時、そのうちの一人がやたらに英語を使う。
どうやら、アジアでのゴルフを頻繁に楽しんでいるらしい。彼が使うは発音は見事な和製ゴルフ英語なのである。この和製ゴルフ英語は、アジアのゴルフ場で通用しているのであろうかと、ふっと思う。
文明開化を見事にやり遂げた明治の日本。その折、激流のように流入してきた西洋の文明文化を漢字に置き換えた。それが、中国、韓国で、それが彼らの母国当然のように使われている。
アジアからの来日者が日本でゴルフする折は、和製英語を使っているのかと、一瞬頭を横切った。そうなると、明治時代に新しい日本語をつくった功労者と同じ、和製ゴルフ英語を作った人たちに感謝しなければならい。
だが、私には、それでは駄目な大きな理由がある。
私の息子二人はアメリカ住まい。それも、帰国が絶望的な状況である。二人の息子たちはあれよあれよと思う内に、金髪のパートナーを見つけ結婚。二世の誕生もやっとのけ、呑気な我が夫婦の予想を遥かに超えた早い展開を見せている。
こうなると、厄介なことになる。私が口出しできることは無いが、真剣に考えなければならないことが、数多くある。
そこは、思い切りの良い我がパートナーは、早々に、これからの生活はアメリカと東京の2拠点とした、生活の設計を始めた。妻付随の私は、唯々諾々その意に沿うだけである。
だが、そうなると、私は私なりに悩むことがある。アメリカでのゴルフ・ライフを考え、和製英語の始末を悩むのである。
かつて、ワゴン車にゴルフ・バッグを積み込み、友と世界のゴルフの聖地巡りをする計画を立て、またや、その準備と自己流のゴルフスイングの改良のために、オーストラリアのゴルフスクールで一ヶ月すごした。
その折、ゴルフ英会話書、5冊も買い求め、それをベースに最低必要なゴルフ用語、英会話を整理した。今、それを恐る恐る取り出し、老いの身にムチを打ち意欲を奮い立て、準備に入る。
そこで改めて思うのが、ゴルフ和製英語のなんと罪な話である。
TV中継での解説者が、これほどまでになぜに、和製英語を氾濫させたのか。その罪深さを責めるのである。今では、海外でのプレーするプロ数多く輩出しているのに関わらずの話である。日本の田舎ぶり音痴ぶりである。
老いの身には余りの大変さに、ふと、手抜きの方法も考えないでも無い。
今、ITの時代。翻訳会話もその恩恵が及んでいるのである。“ポケトーク”がある。それも、進化の途中である。今に、それも、サングラスに取り付け、瞬時の翻訳がなされ、しかも、米語でなく由緒正しいオーソン・ウエルズの重厚な英語で話し出す日も、もうすぐであろう。
これが実現するのは、もう、この数年の話である。私の2拠点生活の生活が始まる時期には間違いなく、実現しているに違いない。
どうやら、英語の心配はないとホッとしている。その時間と気力は、体力作りにかければ良いのである。
思えば、なんと、恐ろしい世界、いや、幸せな時代が始まったのであろうか。
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