狸穴坂は今、私がジムに通う道の途中にある。

この坂、一見する限りにおいては街並みに風情があるではなく、急勾配に気が向き急ぎ足で通り過ぎてしまう、ありきたりの坂である。
だが、この坂の昔を知る者にとっては、通るたびにあれこれと記憶が蘇る不思議さが絡む坂である。
坂の入り口には、坂添いにロシア大使館と東京アメリカンクラブとが、一枚の土塀だけを挟んで、せめぎ合うように隣り合っている。
坂の途中には、今はどうやら、近くのマンションの中に収まってしまったようだが、日本で最初のトレーニグジム、クラークハッチフィットネスセンターがあった。
また、坂を下りきったところには、知る人ぞ知る、話題に事欠かないマニアックなSMホテル、アルファィンが健在である。
そうして、坂の途中には、もう一つ、深夜まで賑わいを決して絶やすことのない大人の雰囲気のバー、ガスライトがあった。
私は今も、そのあたりに来ると、自動ピアノの単調な調べが聞こえてくる気がし、周りを思わず見渡している自分に気づくのである。
シカゴでオープンし華やかな社交場として栄え、プレーボイクラブの誕生の契機となった会員制倶楽部ガスライトが、1960年代には狸穴坂にあった。そのバーの入口に置かれた、その当時、珍しかった自動ピアノが切れ間なく鍵盤を叩いていた。
このバーには、機会あるごとに、かの満鉄調査部に在籍していた大先輩にお供して通い、日本がまだ燃えていた時代の話を、ちょっと身をひきながらだが聞いた。
内緒話をする調子で聞かされた数々の秘話には、身を乗り出して質問すら挟みながら聞き入ったものである。
日本が若く理想に燃えていた時代の熱さにふれて心地よい酔いを約束してくれた思い出の場所である。
ロシア大使館に隣接する東京アメリカンクラブは、ロシアから日本に割譲された満州の日本の統治機関、満鉄の東京支社跡に建てられたのである。

何と不思議な巡り合わせだろうか。
かの先輩亡き後も日をおかずに通い、遂には、先輩の夢の残滓を嗅ぎ取ろうと、30代後半、機会を得て満州。今の大連に渡り、嘗ての満州鉄道に乗り、あのヤマトホテルにも泊まりもしたのである。
この狸穴坂は、私にとっては若い日の幸せな思い出がにじみ出る坂でもある。
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