一旅11。タイの寝そべる仏像

青葉の季節の一日ほど爽やかな日はない。

大地から目覚めた命が、雨の恵みを受け一気にその勢いを増す。散歩している私の耳にも、その輝きのさざめきが、聴こえてくるほどの騒がしさである。

そんな日、西の空に太陽に姿を消す一時、何をするではなく、唯々、夕日が空染めるその瞬時を楽しむ。そんな幸せに出会えたことを感謝したくなる夕焼け、茜雲。

私にもう一つ、忘れられない幸せな夕焼けに出会ったことがある。

職を辞した後の時間を託す場所として選ばれる国。タイという国ほど多くの友を飲み込んだ国はない。あの穏や気質のタイ人、物価の安さ、太陽に恵まれた気候に惹かれての移住である。

そうした友の一人に、あの馴染みの薄いタイ語に挑戦すべく、チェンマイ大学に席を置いた友がいる。

その友の招きでタイを訪ねた折、彼の強い誘いで、彼の勧めるままに古都アユタユ スコータイに車を走らせ、その地、アユタユで出会った夕焼けがある。

程よい高さの仏塔に登り、西の空が真っ赤に染まる一時を過ごした。

その折出会った、草原に散在する数多くの仏塔が、夕陽に赤く染まる様の美しさに思わず、手を合わす。

さらに、その仏塔を降りた野外には、夕日に照らされた巨大な仏像が、寝そべり横たわっている。豊か表情な笑顔で横たわる巨体の仏像に夕陽が映え、さらなる“ありがたさ”を添えているのである。 

夕焼けの中で闇に包まれていく中で、私は、断然,タイが良い友の選択は正しいと嘆息した。

だが、一方で、毎日を太陽、海、木陰と更なる怠惰な時間が流れる中に身を沈める友が、また、日常にまた戻れるかと、少し、恐ろしい気分にもなる。

夕陽に赤く染まる、あの大らかな巨大な仏に会いたくなった。

これは余談だが、その仏は、涅槃像。
英語でReclining Buddhaと言うように 寝そべっている。釈尊と言うと寝ている姿が見慣れているように、釈迦は寝そべり

横たわる姿で、死を迎えるまで説法をしていたと言う。そうして、釈迦は、弟子や動物たちに囲まれて死を迎えた。

今、夕焼けの中に寝そべる仏像となり皆の想いを受け止めている。西洋には無い、なんと穏やかな宗教観であろうか。

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