一幸47。終の棲家を京都に定めるという選択。

終の棲家を古都に定める

この羨ましい企てを着実に実行に移しているのは、旅行代理店を自ら経営していた旅好きの女の友である。友のこの選択を、なるほどと、納得してしまう。

京の街は、興味の尽きない街。深掘りすれば、余生を3倍にしても足りはしない。それも、ほとんど歩きかバスで用を足す。ただ、比叡おろしの厳しい寒さと盆地の夏の暑さを凌ぐ覚悟さえつけば、これほど良い選択はない。

これに影響受けてか、私も、その京都と少し足を伸ばして奈良に、そのいずれの古都にも常宿を定め、足を運ぶ機会が増えている。

そうした旅の折、ふっと気づくと、いつもの時間にいつもの道筋で、いつものところに出向いている。宿と同じように、訪れる処とその道順もが決まり始めている。

京都では、人影が未だ見えない早朝か、人の気配が消える夕刻、無鄰菴や南禅寺天授庵、時には、詩仙堂の縁先にいる。

奈良でも、やはり早朝、左大仏殿道の坂道を抜け、お水取り祭には松明ともに練行衆が駆け上がる二月堂南側の階段を上り、欄干に身を預け、暫し朝焼けの街並みに目を細める。

その後、決まって奈良公園横切り、朽ち落ちそうな土壁に添って新薬師寺まで遠出をする。

私の今の、この二つの古都への旅。

旅だが、旅ではない日常に身を置きに行く旅になってきた。新しい日常に深く身に沈め、新しい出会いも新しい驚きも求めなくなっている。

こんな旅を繰り返していると、この歳になって、また、住むところを動かす誘惑に負け、今の住まいを捨てる日も、そう遠くなさそうな気配である。

その時は、女の友に倣って、自分の欲望が満ちると思われる場所に時間に向かって、気ままにその住いを定めるも良いとノマドの心が騒ぎ誘う。

それに、この二つの古い街に最後の錨を下ろすことに、それほどのためらいもない。この二つの古都。奥が深い。まだ、名前につられ深く入り込む道がいたるところに転がっている。

だが、一方では、この選択に大きなためらい、躊躇がある。

この二つの古都には、深く抉ると沈潜している魍魎が地上に這い上がり、我が身を襲う濃厚な気配がある。その魍魎は静かに沈めて置くが良いと、老いた心にしきりに囁く。そんな声が聞こえてくる街である。

この二つの古都は、兎にも角にも重い街。できれば、お気楽な旅人、単に、通過人でいるが良い街、との思いもする。この古都2都は、そう扱うことが良いのかもしれないと、今は思う。

新しい日常もまた直ぐに煮詰まり、違った異質の時間を求めて、旅に出かける。そんなノマドの浮気心が、私に性があっている。

そう言えば、気づくと行きつけの店の奥詰まったいつものカウンター席に座る。そんな店も長くなると、色濃く煮詰まった色をもちはじめる。そうなると、その店からも遠ざかる。

何も新しいことがなくても良いが、それを求める心持ちを持ち続ける、そのことが私の幸せなのかもしれない。

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