友に誘われ、よく通っているゴルフ場で悲しい光景を目にした。
一番ホールのフエアウエイの真ん中に、プレーヤーの力量を推し量る様に立ちはだかっていた老木が、消え去っていた。その老木、経年の変化が絶妙の歪みの美しい枝ぶり作り出している銘木であった。
こうした老木の退場は、開場から半世紀を越すゴルフ場でよく見聞きする、激しい痛みで役割を終えて欲しまれての伐採とは違う。
経営母体が変わり、プレーの進行渋滞を起こす障害を無くし多くの入場者を迎えようと、心ない経営上の処置のようだ。一様に、心あるプレーヤーの嘆息が聞こえそうである。
少し、これとは、次元の違う話だが、今、大掛かりな工事計画が進行中と聞く。
大江戸日本橋の上を跨ぐように走っているあの見苦しい高速道路を地下に潜らす工事である。戦後、後先考えずに実行された無謀な工事を、今になり漸く元の姿に戻す、大掛かりな工事である。
今、考えれば、どんな理由があったにしろ、こんなお粗末な決定を下した者たちの品性と歴史観をついつい疑ってしまう。
この景観は、まだ回復できるから良いのだが、ゴルフ場の銘木のように取り返しのきかないものがある。
今も残されていれば、そこに住む人たちは無論のこと、そこに昔を思い馳せ訪ね来る人たちの心を豊かにしていたに違いない。そんな歴史的にも由緒ある八重洲河岸千代田城の外濠も無残にも埋められている。
水があるだけで、その街の空気を柔らかく潤いさせる。ましても、歴史が滲み出る風景は、住む人の心を豊かにするのは無論のこと、昔を忍んで訪ね来る人にも十分に幸せのお裾分けができるのである。
便利、近代、合理的などの戯言で失せさせてはならないものがある。仕事を急ぎすぎては、景観ともに歴史も人情も失せてしまう。
ヨーロッパの旅先で傷んだ石畳の道路を汗かきながら、だが、どこか誇らしそうに笑顔すら見せながら、修理をしている人夫の姿をよく目にする。
きっと、ヒールを履く女どもには不評に違いないが、そんな不便を承知の上で自分の住む街の古い姿に愛着を放さない。
欧州では昔の姿を変えようとすると、必ず世論がやかましく頑固な抗議を持ち出すと聞く。日本では、何故か何も考えずに兎に角なんでも新しい方が良いとなってしまう。
だが、そんな日本にも嬉しいニュースを見た。
あの震災で無残な姿を見せていた熊本城の石垣を、真剣な眼差しで修復工事に関わる石工達の作業姿を、旅先で見た石工職人とダブらせて、まだまだ、日本も捨てたものではないと一安心したのである。
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