今、ちょっとお邪魔しているだけである。
山間に見え隠れする村落に見つけ急ぎ高速を降りた。こんなところを見つけ立ち寄る。車一人旅の醍醐味、旅の味わいというもの。
すっかり嬉しくなり、じっくりと、時には道祖神を見つけ窓開け挨拶しながら、家がちらほらと見える田圃沿いの里を小一時間走らせた。里のはずれに、こんもりした木立が茂る入り口に小さな神社を見つけ、さっそく、車を降り小銭を投げいれ手を合わせる。
小1時あと、名残り惜しながらも次の地に向け山越えの山道に入った。その先に、おなじみのコンビニの看板が見え隠れしてきた。喉の渇きを覚え一休みである。
その店の横に立派な樹々を見つけ店の周りを見回しみた。コンビニの両サイドと後背に生い茂った樹々、どうやら、道に沿って森を抉り取り、程よい広さのコンクリートで固めた敷地を確保し、コンビニの開店にこぎつけたようである。
そう言えば、ゴルフ場に通うそんな街道も、ほんの2,30年前には立派な森だったが、今は、樹々がすっかり伐採され、まず、家が建ち始め、やがて石油スタンドや蕎麦やなどの店が多く目につくようになっている。
宗教学者で文学博士の宮家準氏によれば、昔、荘園時代の“里”は
田には、蛇、蛙、虫・泥鰌。
里には、人に犬、猫、鶏、牛、馬。
山には、狐、狸、猿、兎、猪、蛇。
奥山には、山人、山姥、鬼。
その奥岳には、仙人、天狗、天女、白鳥
と棲み分けされていたと言う。
昔、川の近くに作られた田と周囲の山の麓との間の里に村落を作り人は生活していた。そうして、こんな仕分けがされ、自然界に生息する生き物たちの生存をも保証していたのだ。
今よく耳にする、動物たちによる農産物の被害は、棲み分けし共生していた彼らの住処に深く入り込む、掟違反の人間たちの暴挙に起因しているに違いない。
だが、もう、そんな心配もいらないようである。
最近、車一人旅で、地方都市の市街地などを通り抜ける折、発展を急ぎ開発した郊外の石油スタンドやお店は既に閉鎖され、その空き地に名のない草に覆われ始める姿が目につき始めている。
開発破壊と何もメクラジたて声高々というほどもないのである。
人気が消えれば、家もつる草で覆い自然界に招き入れられ、名の無い草木があっと言う間に山道も跡形ものなくなり、獣たちの日常の中に埋まって仕舞う。
私が通うゴルフ場もいずれ、もぐらとミミズがフェアフェイを掘り起こし、鳥たちが運んでくる種々の雑草の種が芽を吹き、元の原野の姿に戻るに、そんなに時間がかからないに違いない。
大雨での洪水する河川、崩れる崖や山は、自然が元の姿に戻ろうとしているだけ。無謀な人の手が入った自然を修復しているに過ぎないのである。人の跡形を消し去るに、そんなに時間はかからないだろう。
あのコンビニも、村人の曾孫の代になれるほんの数十年少し、お邪魔し旅人や村人の便利を与えるそんなところだろう。
あと半世紀も待てば、日本の人口も激減し、このコンビニも森の中に取り込まれ跡形もなくなり、看板だけが森の樹々の間から覗き見られるだけになるのだろう。
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