一幸51。“一熟” 無花果。

無花果は、枝についた実が毎日一個ずつ熟する。そうして、その熟した実は,一熟毎に枝をはなれる。

だが、人の身は、一気にはその姿を見せずに、じんわりと、目に耳に手足に腰にと体のいたるところが、万遍に“熟す”。無花果の実の如く、気づかないうちにこっそりと体から離れ、その機能が失せる。

先日、友と示し合わせての久々の酒食、待ち合わせの場所を新宿、紀伊国屋にした。

少し、約束時間には早く、久しぶりの紀伊国屋である。懐かしくもあり、ひとしきり店内を見て回ってみた。夜にはまだ早い時間、この時間の客は我ら老人たちの姿が多い。そうした中で混雑した書棚がある。ちょっと気になり覗いてみた。

あぁ、納得!である。健康関連の雑誌がぎっしりと詰まったコーナーである。

そう言えば、時間を持て余した昼間、TVにスイッチを入れると軒並み、効能をあの手この手で説得するサプリメント企業、緩んだ体をサポートする健康機具メーカーの通販会社が、がなりたてている。

ついつい、あまりの説得うまさに、思わず、携帯とクレジットカードを手にしそうになる。

そこで、思うのである。

ここは、てっとり早く、エデンの園にある、生命の樹の下から湧く不老不死〈生命の泉〉に、ガタの来た我が身を浸す。だが、今の科学をもってしても、心臓、歯、目玉、手足のなどとサイボークになるのが精一杯で、未だ、それも叶わぬようだ。

やはり、いよいよ、手抜きとの叱責を覚悟で、 TVの薦めに飛びつき、我が身をサプリメントに、手抜き機具に委ねか。

あるいは、見た目がすべてと割り切り、ただ、たるんだ体を包む衣類を色濃い長めものにし覆い隠す。“恥部を隠す無花果の葉”といくかと、大いに悩むのである。 

だが、やはりここは手を抜いてはダメであろう。気張れねば、幸せな時間がますます短くなる。

ジムに通い、筋力をつけ、朝の歩きに精を出し、歩き癖をつけ、食事に気配り、腹の出っ張りを防ぎ、そうして良き友との酒宴の時を過ごし、笑いの多い愉快な時間を過ごす。などと、気張らなければいけない。

ゴルフに例えれば、年を追うごとに、曲がり、飛ばなくなるドライバーを補うべく、“ショートアイアンの技を磨がごとく“に、大向こうを狙う大技を諦め、こまめにあれこれと老いと付き合う工夫をすれば良いのである。

いろいろなものが体から離れだし、もうすぐ悦びも痛みが無縁となるのだが、だが、老いを熟化と捉えて対峙せず折り合いをつけ、老いともに生き終わりに生きる。

見事に実らせた果実を楽しむ。そんな幸せを喜こえば良いのである。

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