一幸52。馬子にも衣装。

気づいたことがある。

我が同僚たちは、一様に似通ったファッションに身を固めている。現役時代と違い、幅広く色んな年齢層と付き合う機会が少なくなった。

どうしても、同世代同士での集まりや会食が多くなる。

我が同僚たちは、お揃いの新しいユニィフォームを見つけたようだ。長い現役時代、自分のスタイルをつくる時間も余裕なく、おきまりのファッションに自分を委ねてきたものにとっては、周りを見渡して、同世代が着ているものを真似するのが、居心地が良いらしい。

それに反して、女たちは、ファッションに気遣いする人ほど、競うように華美な色使いのものになっている。子育てと旦那の世話から解放され、女であることに目覚めたのだろうか。

一気にファッションに目覚めたものは、ファッション雑誌から抜け出したような、マネキン人形となるしかない。

自分らしいファッションは、長い年月、おしゃれのセンスを磨いた上に作られるもの。そのことは、着物の着付けの様を見ればよく理解できる。

玄人と素人の着付けは微妙に違う。

玄人の着付けは、それは完璧の様相を求める。言えば、ファションブックから抜け出したような完璧さのそれになるのである。華やかな一夜を求める男どもの夢を満たすため、完璧な着飾りをする。自分をなくし相手の求めるに合わせているのである。

一方、素人、奥様の着付けは、意識して完璧を捨ててある。

“わざと”のその抑えが、なんとも言えない慎ましい美しさを滲み出し、恥じらいすら微かに匂わさせるのである。

まことに、おしゃれは難しい。

江戸っ子のいなせ、パリジアンのシック、ロンドンっ子のダンディは、人生極限まで洒落のめしている。大げさにきこえるかもしれないが、粋に生きることは ある意味で人生を賭ける行為かもしれない。

英国紳士のおしゃれが、よくそれを語っている。英国紳士は、新しいものを着るときは、わざと一度泥をつけ洗う。着古した感じが、それが英国紳士のおしゃれ、ダンディイズムなのである。

我らは、引退したその時、プツンと時間が区切れる。

これからの長い引退の時間、今まで関心もなく見向きもしなかったファッションに、少し関心寄せ、大人のおしゃれをする。

自分らしいファッションを見つけ出し、日常を楽しむ幸せを手にいれるのはどうだろうか。

私は、現役時代一度も着る機会がなかったジーンズを真ん中に据えたシンプルなファッションを楽しんでいる。

そうなると、姿勢も考え方もそれに合わせたものになり、靴も下着すらもおのずとそれに合い始め、色使いも変わりはじめてくる。それに、そのファッションが背負う文化も微かに自分のものになるのである。

“馬子にも衣装”なのである。

今、私は、現役時代には決して味わえなかった、少し、はしゃいだ解放された気持ちで毎日を過ごせる、小さな幸せを手に入れたのである。

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