一幸55。私の居場所。

トルコの男どもには、日長仲間と集う場所がある。

トルコを旅した折、タクシーの運転手が体をねじり後部座席にいる私に、しきりに指をさし、熱心にそれも怪しい英語で説明した店があった。

その店、どうやら、男どもが日長過ごすカフェのようである。

日中、絨毯織りに忙しい女房殿に邪魔者扱いされ、家から邪険に追い出された男どもが、何かにつけ集う溜まり場、トルコ男の居場所のようだ。

さて、私の居場所はどうだろう。

我が家の年老いた猫は、しっかりした居場所を私に先んじて確保している。気づくと、寒い日は決まって昔買い与えた40センチ四方の電気マット上にて終日、居座っている。

また、家人がいる休日などは、ソファのコナーの背かけの角を居場所とし、我らを観察、いや、睥睨している。どうやら、長らくお留守した私に代わり、主人として役割を果たしてくれているのである。彼が主人で私は居候なのだ。

この2箇所が愛猫の不可侵の聖なる居場所である。

さて、我が同胞たちよ!

濡れ落ち葉と比喩され疎んじられている仲間たち。長く、不在にして、構わなかった、そうして、今や自分の家であるかも定かでなくなっている家で、果たして、自分の居場所を確保出来ているか。

大いに怪しむ。如何だろうか。ほどほどに家人から距離あり、少し、ほってといてくれる、心地良く、自分だけの居場所である。

さて、私の居場所は、、、。

私には、当然ながら、我が家には居場所はない。敢えて言えば、辛うじて一脚の椅子を私の居場所として確保している。

家人の姿が消えた昼下がり、雑然と積み込まれた本箱の前に、お気に入りのこの椅子をどんと置く。その椅子に片足をあげた姿で座り、書棚の片隅に、忘れていたお気に入りの本を見つけ出し、その本をめくり、暫し読み込む。ここが私の居場所となる。

また、何をするではなく、唯々夕日が空染める瞬時を楽しむ時、また、大地から命のさざめきが聞こえてくる、暖かな日差しが差し込む稀なる5月の日。

デッキにその椅子を担ぎ出し、缶ビールを片手に暫し過ごす時。そうした時も、この椅子が良い働きをしてくれる。まさに、そこが私の居場所となる。

旅を居場所とした芭蕉。

私もノマド。この幸せな椅子を我が家で旅させながら、私の幸せな居場所を辛うじて、確保しているのである。

兎に角にも、まず第一歩が大切。先隗椅子より始めよ。我が家で居場所を一先ず確保した、幸せな椅子なのである。

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