今の世は、なんと便利、手軽になったことだろうか。
夜、床に着きベッドサイドにうず高く重ねられた本から、今宵の一冊を取り出す。そのタイミングで、Googleに今宵のサウンドを頼む。
Ok Google! 海の音をである。
やがて、磯に打ち寄せる聞きなれた波の音が寝室に流れ始める。手から本がころび落ち、眠りに落ち込むにそれほどの時間もいらない。
私は水が奏でる音が好きである。
思いつくままに、旅先で聞く、思い出に残る水の音を、静動を並べて書き連ねてみる。
夏の夕刻、人影が途絶えた詩仙堂その縁先で聞く。ただ一本の古竹を渡した筧から落ちる水、その先には竹が石を打つ音へとつながる、その水の音。
今宵、京での一杯は、祇園の路地の奥詰ったいつもの店。
少し遠回りして、昨夜の雨で水かさが増した賀茂川の堤を、せせらぎの心地良い音を背に受けながら歩く。やがて、いつものカウンターで,夜の気配ともに先ずは一杯である。
長旅の末、ようやくしてイグナスの瀑布の真正面に立つ。その爆流の飛沫を全身に浴び、つん裂く暴音が体を震わし共鳴する。全身が耳となる。
その帰途、ユカタン半島に立ち寄り、地下水をたたえた洞窟セレーテで太陽の光を真上に見て潜水。体が水を切る動きが、たてる水音が微かに耳に届く。その音も、やがて太古のかなたに吸い込まれ、驚くほどの静寂さを取り戻す。
伊豆半島先端の宿。激しい嵐は既に過ぎ去った夜半、まだ海はその余波で荒れている。岩に砕け巻き上げる少しリズムを乱した波の音が、床に横になる私の枕元に駆け上ってくる。やがて、私を深い眠りに落とす。
翌朝、宿の窓から見る海は昨夜とは打って変わっての静けさを取り戻す。気ままに、車を海にむけ走らせる。早々に車を下り、人の気配が消えた海辺に立つ。そこに、浜の砂を沖に運ぶ波が、リズムある音を波ともに運んでくる。
嵐の前触れの突風が旅先の私を襲う。今宵の三朝温泉の宿沿いに流れる三徳川に、風交じりの大粒の雨脚が激しく打ち付ける。いつもの静なその流れが狂い、忙しい流音を私の食卓まで届かせる。
ようやく、その激しい風雨も収まる。宿の控えの間のガラス窓越しに、早足で通り過ぎる湯客の傘を打つ雨音、宿の屋根や窓を打つ雨音が、わが耳に気持ち良く響く。
自然がくれる水の音は、たとえ、どんなに大きな音であろうが、あたりの静けさを一層際立たせ、私に安らぎを与えてくれる幸せな音なのである。
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