驚くほどに、貝の形と色は様々である。
貝は、自らの分泌で自分が住みやすい好みの形や色に作り上げているという。
我らは世間体という厄介なものから解放され、痩我慢とか辛抱などには、素知らぬ振りができるほどに歳を重ねた。これからは、ようやく手に入れた時間を過ごす身の回りを、自分好みで揃える自由を得たのだ。
手始めに、私は手頃なお気に入りの身の回り小道具を手許に置いてみた。
現役時代は、鞄はドイツ・アイグナー、手帳はモスキン、ボールペンはクロス、万年筆はモンブランとちょっと気張っていた。
だが、今は、無印商品の雑記帳と三菱のjetstream0.7mmのボールペンをPCと一緒に、スポーツジムの手提げ布袋に放り込んでいる。
この筆記道具、使い出すともう手放せない。ことあるごとに友にその良さを伝え、プレゼントするほどの惚れ込みようなのです。
だが、一方、今でも手放すことの出来ない愛着の品々もある。
常にベッドサイドに置いている眠りの小道具類。
目覚し時計のブラウン、竹の耳かき、竹製の三段伸縮の孫の手、ウレタンの耳栓らは、相変わらずである。これに、木屋の爪切り、ジレットの使い捨て髭剃り、サンスターの超極細の歯ブラシを加えて、多くなった旅にもちゃんと今もお供をさせている。
旅といえば、私の旅心をさらに強めた引退時に買い換えた車がある。排気量5500ccのツーシート、車はやはり過剰が良い。
既に、12万キロも走らせている。大切にしているわけではない。思い切り走らせいじめ抜く。磨き抜くわけでもなく泥まみれである。整備には時間と金をかけるが、あちこちと凹み傷があるがそのまま。恐らく私の最後の車となるであろう、そんな使い込んだ愛車は手放せない。
それに、手垢のついた変えようもないものに道がある。
散歩を兼ねちょっと遠回りする朝の道、たどり着く先はスターバックスでのいつもの席。それに、馴染みの店への夕べの道も。また、そうした変えようもない道の一つである。
そうした道の先の店で飲むコーヒーも酒もワインも、気づくと何の戸惑いもなくいつもの銘柄を選んでいる。
これは、安定とか惰性とは違って、それに至るまでには数多くの間違いもしてようやくに手に入れたもの。慣れ親しんだ手触り、匂い、手順の全てが愛しいまでに昇華しているものであるから、それに安心して戻って行けるのである。
ゴルフで言えば、そのホールの最後に手にするパターが、すっかり手に馴染んだスコッチキャメロンでなければいけないのと似ている。その手触りに、最後の締めを安心して委ねられる。
いろいろと変える忙しい男がいるが、なし崩しに生きるのはもったいない。忙しいのは、心の深い部分を、亡は失うということなのである。
ポンと膝を叩き、確りと決心する。
妥協し変える方が有利と分かっていようが、頑迷に踏み止まり屈従したりしない。そんな意地とか心意気を大切にするが良い。
気に入れば一生。
選んだ確実な愛しい自分を感じ、それから生まれる安心に身を委ね幸せに生きるのである。
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