ある人が,好きなところは?と問われて,農家の庭先と答えている。
庭先の縁側には子供達の履物があちこちと散らばっており,日向ボッコリする猫と老人の姿が見え隠れする、和やかな風景が目に浮かぶ。
だが、本当の良さはもっと別なところにある。
日本の家は垣根や塀で囲まれ、内と外とがはっきりとしている。だが、農家の庭先にある縁側には、近隣の村人が気楽に腰掛け,家の人たちと茶飲み話しができる場となっており、家と世間との境界線がぼやけている。そこが、良い。
また、今はすっかり廃れ見かけなくなったが、かつては縁台の文化があった。
家の庭や近所の露地に置かれた縁台が縁側のかわりになっていた。その縁台には、近所の人たちとの夏場の夕涼みや談笑などがあつた。まだ、近所付き合いのあった、ゆったりしていた時間がながれていた時代の話である。
人は皆、寂しいのである。
特に近所付き合いが兎角,失いがちな、殺伐とした都会生活には、隣人たちとの付き合いを取り戻す工夫がいるのである。
西洋の住まいには、近所付き合いの工夫と知恵がる玄関先の階段、アプローチの庭がある。
アムステルダムの運河沿いの可愛い家々を皆さもご承知だろう。その家々の玄関は、決まって4、5階階段を登ったところにある。
その玄関先には2、3脚の椅子を置けるスペースがあり、そこの住人たちは、長い夏の夕刻は、ビールやシャンペンを片手に持ち、その椅子に座り、暮れ行く町並みを見ながら、時には、隣の住人たちとおしゃべりを楽しんでいる。
もう一つ、アメリカの郊外の家も良い。
そこの家々の玄関に至るアプローチには芝が植えられており、休日には朝早く、決まって男どもが、芝刈り機で、その手入れしている。
このアプローチの芝がひかれた庭が、縁側であり、縁台となり近所と付き合いの舞台となっている。
私は今,集合住宅に住んでいる。エレベーターを降り,我が家に割与えられている部屋までは、ホテルと同様に廊下でむすばれている。
時々,その階に住む人々とすれ違う事があるが,挨拶する程度の付き合いしかない。猫や犬が締め出され、ときどき廊下を迷い出ているが、どこの犬か猫かわからないほどの付き合いである。
どうであろうか。奇抜なビルや驚きのデザインの美術館を世に出している
優れた才能をもつ建築家たち!
是非とも、集合住宅の廊下を、公と私との境界線をぼんやりさせる農家の縁側や縁台にさせる工夫をもたせてくれないだろうか。
幸せな近所付き合いのあった昔を思い出しながら、今日も猫と遊ぶ。あぁ、これはこれで良いのかもしれない。
煩わしい近所がなく幸せなのかもしれない。
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