一言20。いよいよ、綻びが始めた。

さぁ、大変である。

いよいよ、身に心にもあれこれと綻びが目に付き始めた。このままでは、始末に負えなくなる。

その綻び嫌な なものを、速急に探り、それを意識して自ら戒め、丁寧に生きねば、捨てられ避けられ嫌われる人となる。

気づくとやってしまっている幸せを邪魔する嫌を、自戒を込めて徒然なるままに挙げてみた。

友との一杯。気付くと大声での酒席となっていることである。

顰蹙ものである。さすがに、TVで思わず顔をしかめてしまう、タレント達の手を叩き大笑いほどの大騒ぎの酷さはないのだが、だが大声である。

  ”自分たちのテーブル席から声は漏らさない” である。

レストランでの最低のエチケット。年とともに耳が遠くはなってはいるが、言い訳にはならない。

ヨーロッパ諸国の映画でのレストランでの会食シーンを見れば、よくわかる。彼らの食事での会話は、我ら東洋人からしてみれば、ひそひそ話しに思えるほどの小声である。大声、大笑いは、周りの人たちの幸せが逃げていく。

もう一つある。
あれほどに嫌っていた電車での席取りをし始めたことである。

まだまだ、気力、体力が残っていると自覚している。赤子抱く母親に席を立ち、年老いた女性に席を譲る私だが、この年である。丁寧に断ってはいるが、時には若者から席を譲られる。

それに、あれほどに、席に驀進するおばさんどもを嫌っていた私が、時に、素早く空席を探し出し直進し始めた。これは、自分さえ良ければ良いとの精神の破壊でもある。身も心も荒んできているのである。

そんな時は、これからも衿持である生活を遵守するために、翌朝のスワットの回数を倍にするペナルティーを課す。

   ”健全な精神は健全な体に宿る” である。

そう言えば、背筋のシャキッと伸びていないボコッコリ腹。

自戒である。油断するとてきめんである。新陳代謝が衰えた我ら老いたるものは、食い意地に任せば見事な太鼓腹になる。歩かない。運動不足の怠惰な毎日が続けば、さらなる、太鼓腹が待っているのは当然の報いである。

それに、背筋腹筋の衰えは尋常ではない。首が垂れ、首が背筋からはなれ前にでる。老いには容赦がない。それから逃げ出すには厳しい自制と鍛錬しかない。老いに任す日々から、能うかぎりの抵抗を試みる。老いの日々の難しさを実感する毎日である。

老いた日々を幸せにするには、さらなる自覚と自戒と自練なくては決して幸せは得られないようだ。幸せを邪魔する。

悲しことに、日々年々、幸せが遠のくのである。

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