引退した当時は潤沢にできた自由な時間に興奮し、期待に心躍らせたものだ。
だが、それが日常となると、その興奮も冷め贅沢なことに、あぁ、退屈だ、の連発である。ここは心して、戦い抜いて漸く勝ち得た自由な時間、丁寧に生きねばと日常に散らばる幸せを集める。
人影が消えたプラットフォームで最終電車を一人待つ。

相模湾に飛び出た真鶴半島に、岩に砕ける波の音が這い上がってくる崖淵に、小さな居を持った時があった。気が向くと車を走らせ、その居に向かう。そんな日々が何年か続いた。
時には、お気に入りの寿司屋で地魚をツマに杯を重ね、電車で東京に戻る。昼間も人影がまだらなプラットフォーム、上りの最終電車を待つのは、私一人。
遠くから、窓からの小さな光を漏らしながら、電車がプラットフォームに滑り込んでくる。この光と音が、不安と頼りなささが入り混じる少年時代の一人旅と重なり、懐かしさが一気に湧きあがる。幸せな一時を楽しむ。
田舎道に咲き誇るコスモスを見つけ、車を止め、暫し見惚れる。

ゴルフ場に今朝も車を走らせる。高速を降り暫く走らせると、気持ち良い住宅街に出会う。その住宅街を通り抜けると、道の両側には開発を待つ,捨てられた畑が広がってくる。
その荒地に、秋の入り口には、コスモスの群生が可憐な花を咲かす見ごたえのある風景に出会う。そんな花には、小さな花だけが持つ、微かに幸せの香りがする。
この幸せに出会うと、好きなゴルフも霞む。大都会に住む私は多少大げさに思う幸せである。
闇夜に微かに発する薄明かりの小夜、酔歩で家路につく。

今宵の酒は良い酒だ。かわいい孫の話もない。まして、老と体の不調の愚痴もない。そんな友との酒宴では、酒も肴も俄然旨くなる。得難い友との一夜である。その帰路は上機嫌な幸せな小酔いの宵となる。
昨今、混沌とするこの世間も、老に負け始めた友の話にも、嫌いな話ことが際立ってきた。そんな世間や友には、顔を背け目を瞑り距離を置く、自衛の術を尽くし,自ら始末つけるしかない。
ずるく生きるしか、ないのである。良い友を得て,馴染みの小料理屋のカウンターで軽く杯を重ねる幸せが、一番である。
誰の言葉か定かではないが、“幸せを感じることが得意になる”ことが、幸せに過ごすための秘訣のようだ。
まさに、日日是幸日である。
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