一幸77。ちょっと幸せ。その3。

年を重ねるにつれ、楽しいことが姿を隠し始めた。

子どもの頃は何をするでもなく友といるだけで楽しかった。大人になるとそういう感覚も薄れる。それに職を退いた身には、時間だけは、ふんだんにある。

当初は旅にゴルフに酒宴にと遊んでみたが、当初の夢中も消えた今は、それにも、一工夫二工夫をも加えてようやく幸せが感じられる始末。

困った。困った。との贅沢さである。 

そんな日常で見つけた幸せを呼び込む仕掛けを見つけた。神さんに、頭を下げ祈るのである。有難いことに、日本の宗教は、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の一神教と違って、自然の中に八百万の神を見立てる宗教。いたる処で神さまと出会える幸せな国である。

ゴルフ場に鎮座する神。

友のホームコースには、誰しもが攻めあぐねている難関のショートコースがある。そのホールに向かう小道の少し奥詰まった大木の下に、お賽銭箱もちゃんと置かれた小さな神社が祀つられている。

そのまわりの草むらには、投げ入れられ損ねた硬貨が数多く散らばっている。

友に習って,ちょこんと頭下げる。なんと、どうした加減か。力の抜けた良いスウィングで見事にグリーンを捉えることができた。一気に,ゴルフが楽しくなり、幸せな一日となった。

そうである。神頼みが良い。力みの取れた素直なスウィングが出来るほどに、心の静けさが得られるのである。

路傍の地蔵さん

私の旅は計画など有って無いような気儘な、車を走らせる一人旅。高速道路を捨て山道に迷い込む。視界の開けた少し草木が生い茂る荒地に車を止める。

大きな伸びをして、ふと下に目を向けると小さな地蔵さんが目に入る。

そこに、荒い脆い石の地蔵さんが目に入った。風雨にさらされ、形も定かで無い地蔵さんである。辛うじて,両手が合わされ祈り姿が見て取られる。なんだが,素直に祈りたくなるお地蔵さんである。

地蔵さんの顔覆っていた草を払いのけ、ピョコンと頭をさげ旅の無事を祈る。この幸せな地蔵さんとの出会いを機に、無謀に追い越しかける車にも、心静かな譲り、周りの素晴らしい景色に目が向く。

そんな幸せな車旅となつのも、路傍のお地蔵さんのおかげである。

散歩で出会う神。

私の朝の散歩道は、高低差が30mと坂の多い。決まって、立ち寄る神社も、53段ある急勾配の階段を上った所にある。先ず、鳥居の前で深々と一礼して,その階段を一気に駆け上る。

その先には気持ち良い、神社特有の空間が広がっている。その先の拝殿に向かう。身を引き締め,ちゃんと儀式に則って祈る。二礼二拍一礼。祝詞も忘れずに、である。そう、お賽銭もちゃんとする。

柏手を打つうちに、心が静まり、神に向き合う意識が生まれる。神社は神と人とを媒介してくれるところ。人一人いない朝の神社でのお参りは、心静かな朝の幸せを与えてくれる。

誰の言葉か定かではないが、“幸せを感じることが得意になる”ことが、幸せに過ごすための秘訣のようだ。

まさに、神頼みの穏やかな日日是幸日である。

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