今日、いい言葉に出会った。禅語だそうだ。
掬水月在手 弄花香滿衣
“水を掬すれば月手に在り、花を弄すれば香衣に満つ”
月の光も野の花の香りも誰にも平等に行きわたっている、と言うことだろう。
舞い込む風。
日常に散らばる楽しみや美しさに目を向ける。そんなちょっとしたことで、人生は豊かなものになる。自然が仕掛ける豊かさの中から、丁寧に一つ一つ、幸せのかけらを見つけ出し、過ごすが良いのである。
時に、我が家のデッキに、微かながら海の匂いを含む優しい風が、舞い込んでくる。その風は、遠くなった幸せな夏の午睡の思い出に還らす。
今では遠い昔であるが、一夏、暑い京で過ごしたことがある。その折、涼を求めて毎日のように通う寺があった。向かう先は、観光客も少なく、静かな時代の詩仙堂。
その当時は、二階にも登れ、庭を見渡せる部屋が独り占めできた。涼風が取り抜けるその部屋で一人、畳に長々と寝そべり、短い午睡を楽しんだ。鹿追の仕掛けの響きがさらに眠りを誘う。
風は、幸せな昔に連れ還してくれる不思議な力をもっているのである。風に心寄せれば、思いもよらない幸せを運ぶ風になる。
漏れてくる灯。
周りが闇に包まれる時、そこに漏れてくる光には、時に、驚きの広がりを見せる時がある。人が持つ、知覚能力を感覚を、一気に拡張し増幅拡張させ、もう一つの世界に連れて行く。
闇が迫る瞬時に見せる夕焼けは、幼い私が海に伸びた堤防に一人取り残された時の、頼りなく不安を隠しれなかった思いを脈絡もなく思い浮かばせる。
懐かしい幼い時代にタイムスリップさせるのである。
もう一つ、私が好きな光がある。私を旅に掻き立てる光。
年月を重ねた京の街を、今宵の夜の席をもとめて街を彷徨する。繁華街を少し離れると、京の街は趣を昔のそれになる。
そんな街は、すでに閉められた店の光は消され、民家からの微かに生活の光が漏れてくるだけの闇に閉ざされた街になる。そんな街で遠慮がちに暖かい灯を外に漏らしている家がある。
そんな家を見つければ、それが間違いない夜を約束する店なのである。
その灯は、大樹の陰から漏れてくる夕陽の光に似て、幸せな影を作る光なのであろう。もう、冷えた酒を待ちかねて喉がなり、とびきり旨い酒肴を期待してか口一杯に唾が広がる。
乾いた下駄の音。
人声は大きく無作法になったが、一方、音が欲しい時には音がない。気付くと、人も車も真後ろに迫っている。少し、不気味な世になってきた。
靴の音。今は、誰も靴は音をさせなくなった。
寒い冬の夜、遠ざかる靴の渇いた音に、その行き先に想いを馳せる。そんな少し、楽しませてくれた音が今は、無くなった。
先日、遠出のゴルフに出かけた。そのついでに、車を走らせ山間の温泉宿で一夜を過ごした。疲れ過ぎたのか、寝付かられない旅先の宿で、私の耳にとどいてくる音があった。
宿の前を流れる川のせせらぎの音に混ざって、通りを通る賑やかな人声に、その人声に混じって、微かに、懐かし下駄の乾いた音が聞こえてきた。今は、すっかり忘れていた遠くなった幼い時の思い出の足音である。なかなか良いものである。
やはり、なくしてはいけない音がある。
日常に満ちている風、光、音に、少し丁寧に気を向ければ、幸せな昔の思い出に連れて行ってくれる。
誰の言葉か定かではないが、“幸せを感じることが得意になる”ことが、幸せに過ごすための秘訣のようだ。
まさに、日日是幸日である。
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