一言23。人生100年。その2。

一先ず、言い出し屁の私が浅知恵で一考してみる。手始めに、こういう時に便利な孔子を呼び出し、長寿の今に当てはめてみる。

     不惑 40歳を、50から65歳に格上げ
     知命 50歳を、65から80歳に格上げ
     耳順 60歳を、80から95歳に格上げ 
     従心 70歳を、95歳以上に格上げ

だが、今の我ら老人は恥ずかしいことながら、それほどの成熟も無ければ、枯れもしてはいないようだ。

では、こうではどうだろうか。
      65−80歳は熟年
ほんの昔、中高年の意味合いで使われていた熟年を衣装直し 格上げして再登場させる。十分な状態に達している成熟の熟をいただき熟年世代。 

一先ずは、決まった経済活動からは退いた年代だが、まだまだ気合も健康にも自信ある世代。人生を、さらなる高みに上げ熟成させる年代と位置付ける。

だが、我欲はもう捨て良い年代、自分の専門分野を再研鑽、深堀し、自分なりの完成を目指す。それをもつて、現役世代の脇役に徹しながら世に恩返する。

   さて、80−95歳は悠年。
さすがに、心身の衰えがめだつ歳ごろ。ようやくに、自分なりの最高の高みにある歳。素直に自分に向き合い問える年となった。もう十分に人にも世にもつくした。最後の日々を悠遊と自分中心で生きればよい。悠年である。

自己への欲も収まり淡々と世にも接することができる悠悠閑閑年代。世俗的煩わしさ避け,自然の風物を郷愁し、いよいよ時の流れに身をゆだね静かに思索に時を過ごし、魂の浄化を日々の務めとする。

歳にもう不足はない、この世からのお別れである。これ以上の命は世にも迷惑、もう十分に生きたのである。自分一人で生きることの難しくなった体と頭を、一気に枯れ空させ無に行き着く。一生懸命に余命を短くすることが仕事となる。

いよいよの95歳さらには、無年。枯れ空になり無くなる無世代。

          その3に続く。

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