困ったことに、やけに嫌なことが目に付き始めた。
我慢が肝腎と心しているが、ついつい、物申す嫌な年寄りになり始めたかと肩をすくめる。だが、やはり、さらりと、言ってのけている嫌な自分がいるのである。
徒然草で言っているではないか。
“おぼしき事言わぬは、腹ふくるわざ”
この歳である。勘弁して貰う。
昨今、気づくと、車を走らせ古都に向かっている。その古都での気づきである。
久しぶり古都、庭も仏もそれに龍を、お気に入りの寺に出かけ独り占めしたい。でが、昨今、その気も失せ2、3の寺や庭を除いて、すっかり足が遠のいている。
その訳は、いよいよ激しくなった私の我が儘にある。
混雑ときの参拝は気を削ぐが、だが、雨の日や早朝か、閉寺寸前の一時にタイミングを合わせば、それも凌ぐことができる。
だが、どうにもできない気分を削ぐものがある。
名庭の真横に、名だたる仏師の仏像の、また、堪能したい墨絵の、その先に、赤々としたトイレの表示が目に入る。さらに、余韻のまだ冷めない出口には、無愛想な寺男衆が憮然と座り、その応対をしている煩雑な売店がある。
日常とは遠く離れ、時空を超えた古の空間に身を置き、その庭に、その仏像に、その龍に会い、その余韻ともに寺を後にしたいのである。煩雑な日常の世界に一気に連れ戻される。
確かに、これだけの空間を維持していくには、十分な拝観料もお札、絵葉書、蝋燭の販売も確かに必要である。何も売るなと言うのではない。それも、トイレが無くても良いとは言っているのではない。
少々不便でも外にあれば良い。
生活の気配を消した寺がよい。難しくはない。その身に自分を置けば直ぐに分かることなのである。生活の匂いを消し去るのが良いのである。
考えてみれば、一方、神社のお札売り場は、その静寂さを壊さない配慮がされている。拝殿から少し離れたところに、整然と整理されたお神札売り場があり、それを入れる包装紙もある。それに、それを扱うのが、赤と白の身につけ巫女たち。さらに、男衆も袴をはき清潔さを身に纏おうっている。綺麗に統一されている。
誰か音頭をとって、お寺の中の表示類も含めて、お寺の売店の工夫をやってみるのはどうだろう。京都も奈良には,人一倍美しさに敏感な美の大家も美大生も大勢いる。美の大家の出番である。美大生も走れば良いのである。
なぁ〜に、何の心配もいらない。
今もお断りしたい程の溢れる観光客が訪れている。こんな小言は、老人の戯言と捨ててしまえば良いのである。
コメントはこちらから