老が、我が身を駆逐し、更に心にも群生し始めた。
その嫌な老いが見え隠れしだした。

“身”に“心”に、あれこれと綻びが目に付き始め、可笑しな自分が居座り始めたようだ。
自己愛に突き動される、そんな自分が大きくなる。
人を否定し、正に、”自分は正しい”症候群の発症である。
やけに、嫌なことにだけに目が向いてしまう。
しかも、それに、やたらに、いろいろなNOを意思表示するスイッチが、異常な勢いで増えている。

遮断するスイッチ。
拒否するスイッチ。
顔を背けるスイッチ。
聞こえない振りをするスイッチ。
時には、無視さえするスイッチ。

ネガテイブな感情に切り替わるスイッチいろいろが増え始めのである。
それも、一大事なことであれば良いのが、日常茶飯のちょっとした、人の嫌な行動に目がいく。

*人を押しのけ走り、我先に席取りをする人。
*タレント達を真似てか、大声で旨い旨いと連発し、手を叩き
し 大笑いする人。
*肩をぶつけながら、平然と歩き去る人。
*餌に群がる鴉ごとくに、餌場と化したブッフェに群がる人。 *野菜、葉っぱをやけに熱心に貪り食う男。
*集まりの席で、当然ように中心の席に座る人。
*色と量ともに過剰なファッションをした男女。
*やたら、いろいろと細々とした小皿料理が並ぶ日本旅館の朝夕の膳を喜ぶ人。
*混み合う美術館で、名画を最前で長々と見る人。
*社用車を待たせ、後部座席に踏ん反り返って座る社用族。
*スマホに顔埋め、大きなバグパックを背負う気配りを欠く人。*げっぷ、大口、大声での食事する人。
*小銭入れの硬貨を数え、支払いをする男。
あぁ、挙げればきりがない。なぜに、こんな風景に目が止まるようになったのか。
だが、とりわけ騒ぐことでもないのである。
そこは、自分とは関わりのないことと視線を外し、どこ吹く風と構えていれば良い筈。
それに、そうやっている人は、実は心根は優しく、ただ、少し外れて、私とは異なる基準や感覚に従っているだけ。
イライラせずに鷹揚に感情を抑え、穏やかに、対応すれば良いのだ。

老いて、心の余裕がなくなってきたのだろうか。
ひとこと、言いってしまった。
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