一旅25。旅先の街。はじめに。

        No Travel。No Life。
     “旅こそが報酬である”。ステイーブ・ジョブス

私の旅の舞台に、アメリカ大陸を加える。
人生、最終章の幸せのデザインが固まった。

夕陽が眩しい時刻を過ぎると、細かい文字の本を読むのが億劫となり始めた。引退し、ようやくに得た潤沢な時間に制約が出てきた。

本好きの私には、なんとも寂しい。

しかし、足腰はさほど不自由はない。
フットワークも悪くない。車を走らせるに十分な体力が残っている。
旅に行こうと自分を突き動かす、内なる少年の心も、まだまだ健在である。

長男はコロラド・デンバーに、次男はカリフォルニア・サンフランシスコと自分たちの住居を定めた。

引退後の10数年、日本列島を隈なく車で走らせている旅好きの私に、期さずしてアメリカ大陸での旅の拠点、ベースキャンプができたのである。

だがアメリカでの旅、いろいろと日本とは事情が異なる。

最大の課題が“バベルの塔の崩壊”である。
唯さえ耳の遠くなった身で、未熟な英語でのコミュニケーションとなる。

日本での旅では、どこに行こうが会う相手は、少しその地の訛りがあっても同じ日本語で通じ合う。
アメリカでは、私は異国人。言葉も習慣も価値観も違う異邦人。

全神経と感を働かせて、しっかりと耳を澄まし、残された左の効き耳だけで聞かねばならい。言葉の壁がある。

コミュニケーションが穴ボコだらけとなる、そんな不都合不便が、つきまとう旅となる。

だが、そうしたおぼつかない英語も、ふたりの孫、息子たちのMrs、近所さんとの挨拶、毎朝のスタバでの注文、買い物、ゴルフでの同伴プレーヤーとの会話などを繰り返しているうちに、少しずつだが英語の耳になっていく。

年を取った脳が、余りにもの荷重にショートしないことを祈るだけである。

言葉の壁以外にも、なんとも悩ましい問題がある。

先ず、この大陸、実にデカイ。
どこに行くにも車だけでは用が立たない。一先ず、飛行機のお世話となる。

一度、アメリカ国内で飛行に乗ればわかるが、外国人はパスポートでの身分証明が必要になる。

さらに、空港でのレンタカーを借りる折、その事務手続きの目に余る煩雑さに辟易となる。それに、形式的な手続きをへて取得する、何とも不思議な馬鹿デカイ国際免許証も要る。

難関は、不案内の上、違う交通規則での運転である。

右側通行、右折のときは赤信号でも行けるし、センターラインに一番近い一車線は、二人以上乗っているか、電気自動車、または特別パスの別料金が掛かる。

当然、携帯カーナビが必須。携帯とルーターの用意。

しかし一旦、目的地に着けば、後は、国内旅行とさほどの差がない。

いつのように鼻を利かせ、感に従い、自分を信じて街を歩けば良い。
賑やかな表通りの一本裏に迷い込み、長く踏まれ丸く角が取れたすっかり馴染んだ路に出る。

そうした道沿いにカフェ見つけ、そのテラスの窓際で小時間を過ごす。そうすれば、その街の様子がすっかりわかり、自分の街となる。

さて、アメリカの旅の要鉄は。

我が身はアメリカの仕組みから、はみ出している異邦人。そう簡単には受け入れてはくれないのが、現実であることを認識することである。

そこで、重要になることは、どうしてもその解決法がわからない時は、焦らず、急がず、しばらく佇んで眺めていれで、その策に気づく。

この夕も、玄関の芝の上に椅子を持ち出し、このブログをビール片手に書き進めている。帰宅を急ぐお隣さんが、声をかけてきた。
軽くビールを上げ、二こと、三こと冗談で挨拶を交わす。

こうして、少しずつだが、我が身をアメリカの中に紛れ込ましている。

さて、明日は?
相変わらず、アメリカでの旅も詳細な予定が決めずの旅となる。

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