車を降り、歩きたくなる道がある。
今回の旅は、東北地方の街々を目指して、車を走らせる一人旅。それも、名所旧跡や都市を避け、小さな町や城下町に立ち寄る、そんな旅の筈であった。
だが、訪ねたどの城下町も、城周辺の屋敷街や駅前の商店街の一部を残し、すっかり昔の面影を無くしている。
一時期、地方都市も景気の勢いにつられ、郊外へと街並みを広げた。
今は、その広げたその地が歯抜け状態となっており、生き延びているのは、ケバケバしい原色の看板を掲げるチェーン店のみとなっている。
旅の初日からすっかり気落ちし、予定していた幾つかの街への立ち寄りを止め、今宵の宿の盛岡に向った。
その夜、陽が落ちる前から、宿が勧めるまま鮨屋で痛飲の夜を過ごし、翌朝早く青森に向う。
市内を軽く一周した後、コーヒーを飲みながら、ぼんやりと青森港で過ごしている内に、怪しかった空が雨雲に覆われ始め、秋雨が落ち始めた。
今日は、弘前の宿に入る前に津軽半島に走らせ、翌日からは、秋田から男鹿半島を経由して、山形、新潟、富山と日本海沿いに走らせる、そんなイメージの旅程を組んでいた。
残念だが、この雨当分、裏日本に居座る様子。
大きく舵を切リ、この雨から逃げ出せねばならいようである。
一先ず、弘前をスキップして秋田市に宿をとる。
翌日、雨を避け内陸、山形市を経由して福島市へと国道13号を走らせた。
だが、何が幸いするか分からない。
旅での出会いは、人生での出会いと同じで、思いかけず現れる。
山形市を過ぎる辺りで立ち寄ったSAで、ふっと見た地図に金山の文字を見つけ、急ぎ、その町を調べる。
やはり、イザベラ・バードが“東北・北海道の旅”の折りに訪ねた、その金山であった。
イザベルは、その旅で城下町新庄市から金山に至る途中、険しい上台峠を越え、数夜、この金山で過ごしている。
この道を車で走るのは、もったいない。
歩きたくなる道に、出会ったのである。
上台峠の麓で車を道端に止め、数多くの車が往来する中、クラクションには手で丁寧に謝りながら、歩き始めていた。
私は、今、イザベラ・ルーシー・バードが見た風景を見ている。
この風景には、今もそれほどには人の手が加わってはいない。彼女が見た当時とそれほどの違いもないだろう。
“今朝、新庄を出てから、険しい尾根を越えて、非常に
美しい風変わりな盆地に入った。
ピラミッド形の丘陵が半円を描いており、北方へ向かう
通行を全て阻止しているようにも見えるので、
益々奇異の感を与えた。その麓に金山の町がある。“
日本奥地紀行(Unbeaten Tracks in Japan.)
行き来する車からも切り離され、その当時につながる全てが、生き生きと浮かび上がって来た。
その時、バード47歳。
明治11年(1867年)6月28日日光を出発し、9月14日函館を出航。
車夫兼通訳の20歳の伊藤を従者として、人力車と駄馬で、食べ物と宿、それに蚤、蚊にも悩まされる、そんな旅だったようだ。
想像すら難しい多難な旅であったに違いない。
誰の言葉か忘れたが、
“あらゆる旅は、その速さに比例してつまらなくなる”。
そろそろ、誰からも言われる様に、車を捨て歩くそんな旅にすべきかもしれない。
ふと、そんな思いが横切った上台峠との出会いであった。
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