一景32。 赤坂氷川神社と包丁塚。

赤坂氷川神社は、賑わいの絶えない赤坂の奥深い所に、ひっそりと佇んでいる。

我が家が神社から本氷川坂を少し下ったところにあった当時、愛犬、柴犬”吾”の朝夕の散歩は、その神社の境内と本堂の先の階段を降りた、今は住居ビルに占拠されている空き地であった。

秋先の木枯が吹いた翌朝の散歩は、境内の樹齢450年を超える大イチョウから落ちた銀杏を、拾いに来ている近所のおばさん達に、挨拶しながらのものとなる。

この神社、なかなかと話題のある神社。

江戸城本丸大廊下での刃傷事件とそれに続く赤穂事件。
その浅野 内匠頭の夫人瑤泉院の実家が嘗てあり、また、その近くには、“南部坂雪の別れ”の南部坂が、アメリカン大使館員宿舎裏側に沿ってある。

その宿舎は、元三井財閥の本家である三井八郎右衛門本邸が在った。

また、その本氷川坂を挟んだ反対側には、あのバブル時代、ゴッホとルノワールの二点を44億円買い、“死んだら絵を棺桶に入れてくれ”と話題を呼んだ元大昭和製紙(現日本製紙)の斉藤了英社長の大邸宅もあった。 

先日、この懐かしい氷川神社に、六本木ミッドタウンからの帰り道にお参りに立ち寄った。

その折り、かの石段の横の包丁塚をふと覗いた石碑の裏に、懐かしい名前を見つけた。

  “保住 辰太郎”

現役当時、よく訪れていた寿司屋穂寿美の創立者の名である。
今、赤坂の街が大改装中である。その穂寿美も、その勢いに押され閉店に追いやられたようだ。

そう言えば、TBS前の赤坂ツインタワーが解体され、森ビルの高層ビルがその跡地に建つようである。まさに、今、赤坂の街が大変身を遂げようとしている。

こうした中で、古いビルが壊せれ、何故か、その多くはビジネスホテルとして建て替えられている。

解体されたビルに構えていた古からの店は消え、新しいビルには、新しく建てられたホテルの宿泊者を客とする、当然、そうしたお店となる。

それに、赤坂を夜の街としていた、政治家財界人が贔屓としていたほとんどの料亭が、店を畳んでいる。

そうした流れの中で、寿司屋穂積美をはじめ、私の馴染みの店が、すっかり消え、今は、“司牡丹船中八策”を買う折に寄る酒屋と歯医者のみとなっている。

そろそろ、この赤坂も私とは縁のない知らない街になったようだ。

そんな思いにさせられた、懐かしい名前との遭遇であった。

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