久々に、友たちとの一杯である。
年をとったと思った。
友たち、口は達者だがどうも様子が可笑しい。どの友も、会話しながら頻繁にスマホを覗きこむ。
怪しくなった記憶の手助けを、スマホに頼っているのだ。
スマホの助けで、“あぁ、ほらアイツだよ”が、懐かしい実名になり、オデコのメガネ、顎のマスクを探しながらも、確りした会話となる。
ゴルフ場でお馴染みになった風景も、これに似て少し異様である。
ランチ時、我が同胞たちが病気の手術痕を見せ、血管が、心臓が、膝が、歯が、これほどまでに痛んでいるかを、何故か、自慢し始める。
同伴の若者たちは、しかめ面を隠して、“あぁ、大変ですね。”と相槌を打ちながらも、その場を、早々に離れる。
いつもの事と、話が始まる前に逃げ足を用意している若者さえいる。
人が老いると言うことは、身体のあちこちが疲弊し、当然ことながら五体が無事である筈がない。
だが、ありがたい技術の恩恵を助けて、5体を人工的器官に置換され、辛うじて機能を復元させる。
頭にスマホと同じ様に、足は人工骨、耳は人工鼓膜、口と眼はインプラント、心臓は人工弁と血管、頭は植毛。
人工部品が総動員され、老体が、ロボット寸前の状況に仕上げている。
無念なことに、科学の恩寵で五体の機能を治し直しても、老いつれ大切な思い出が、遠く霞んで思い出せなくなり消えて行く。
辛い思い出を忘れさせると。神の恩寵と感謝し古い記憶など捨て置けば良い。そうして、都合の悪い話が出た折は、“記憶にありません。”と逃げるに限る。
だが、身体の綻びと同じように、心をも間違いなく崩れ始めている。
それにつれ、身勝手さと辛抱なさもが加わり、怒りに満ちた言葉が遠慮なく出始める。
いよいよ、“身”に“心”にもあれこれと綻びが目に付き始める。
歪む身に醜怪な心、それに大柄な口が加わった。
これでは、人生、終末に至って恥じ多しである。
このままでは、始末に負えなくなる。ここは、若者の群れから離れ、自分一人没念と暮らすが良い。
私は、傷んだ心と身を車に閉じ込め、一人旅に出かける。
山に海にと人里を離れ、世間から遠ざかる。
忘却もまた良からず、である。
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