一幸102。老いたる者の“幸せのレシピ”。 

気の合う友が、まだ、ちらほらと生き残っている。

だが、そんな仲間たちと揃って会う段取りをつけるとなると、ひと仕事である。

先ず、彼らは住まいが引退時に都心から郊外へと、あちこちと散らばってしまった。そのうち何人かは、さっさと、故郷へと戻っている。

それに、それなりの健康上の事情を抱えており病院通いとかで、彼らはそれなりに忙しい。

そうなると勢い、世代の違いがあるが、ジムとかゴルフとかでの若い知人たちとなる。だが、それはそれで、今度は相手が逆に “老人とは” と面倒がり、結局は、ひとり人酒となることが多くなる。

世の常である。

老いにつれ、仲間たちとのワイワイ騒ぐ楽しみから距離が出る。別の言葉を借りて言えば、楽しみの主が、一人でのものになる。

それが、どうも、老いに向かうということの様である。

しかして、寿命が射程距離に入った老人は、必然的に、家での時間が多くなり更に寿命を縮める。

だが、断然と私は反旗を翻す。
遊びをせんと生まれ、戯れせんと生まれけれ。 
である。

洒脱とか粋だというわけではないが,戯れを選ぶ。
仲間たちは顔を顰め、非難の目を向けるが、若さと老いとの線引きをしない。

確信犯と言われても仕方ないが、楽しむことに、年の条件はない。毎朝、若者たちに混じり、スタバであの濃厚なコーヒーを楽しむ。

誘いがあれば、ゴルフ場に週幾度かは出掛けて、カートを断り、最近、とみに散らばりだしたボールを、ひたすら走り追い捜す。

そうした誘いのない日は、週一度は必ず、一人酒ができる店寿司屋のカウンター越しに、すっかり馴染なった親父とのお喋りを楽しむ。

それに、今も、まだ無謀と言われながらも続けていることがある。

月に一度、家族、友人から免許証の返納を急かさながらも、車に“どっこいしょ”との掛け声をかけながら、深々とツーシートに座り込み、思い切りエンジインを噴かし、京を拠点にしての数泊の車一人旅に出る。

それに、新しく加えられたのが、年に数ヶ月、息子たちの住むアメリカへの旅である。

このアメリカでは、当然、ご近所さん、それに、ゴルフ、ジム仲間もないことから、ますます、話す相手の無い日々を、持て余すことになる。

こうさように、暇ながら忙しい一人での日々を過ごしている、今日この頃である。

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