近代人は、自由を得る代わりに孤独になった。
エーリッヒ・フロム
旅先のホテルで、天才少年、藤井翔太作の詰将棋が、色紙になって掲げられていた。
対局場となったホテルに、そのお礼として創ったものらしい。
律儀な、少年らしいお礼の仕方である。
久しぶりに、埃を被った将棋盤を取り出し、将棋好きの友とその詰手を競い合った。時間の経つのを忘れさせる、幸せな時となった。
このところ、仕事からも解放され得た潤沢な時間を、いささか持て余し気味である。
やろうと思えば毎日でも、ゴルフに出かけ、車に飛び乗り日本列島を走り、毎夕、一杯ひっかけにぶらりと出掛けられる。
皮肉なことに、そんな時間を求めて仕事を退いた筈なのだが、いつでも出来るとなると、心が動かされない。
“何をやっても良い”、という状況は、凡庸な人とっては、かなり難易度が高い状態のようだ。
人は自由すぎるのも困る。
持ち駒と手数が決められている詰将棋と同様に、いろいろと制約あると、あれこれと工夫し、ようやく楽しむことが出来る様である。
アダムとイブは“楽園からの自由”を得た。
だが、“その自由”を、使い楽しむ知恵は、持ち合わせていなかった。
その事態をエーリッヒ・フロムは、
“近代人は自由を得る代わりに孤独になり、苦痛が始まった。”
と、宣っている。
まさに、我ら凡庸な “引退者”は、自由を得る代わりに孤独になる。
しかして、何とも皮肉なことなが、
Escape from Freedom。自由からの脱走を計る。
またして、自縄自縛の毎日を作り始める。
“メモる”ほどでもない約束を、部屋の壁に貼られた真っ白なカレンダーに、敢えて書き込む。
先ず、毎週決まった曜日をゴルフ日と定め、大きく赤色で入れる。次に、京へ車を飛ばす予定を入れてみる。
それに、早々に、この夏のアメリカに住む息子たちを訪ねる日々に、横線でカレンダーを汚す。
後は、あいかわず、印のつかない日々が続く。
そこで、日常のリズムを定めてみた。
戦い、漸く自由を得た日々ながらも、あれこれと決まり事で身を縛る。
毎朝、PCと数冊の本を携えて、スタバに出かける。その後は、アスレチッククラブでランチとプールとサウナである。
これで、毎日、午後3時までは、予定でぎっしりと埋まる。
後は、何人かの友に夜の誘いをしてみる。
だが、故郷に、郊外にと散った友たち。めんどうがり、反応が弱い。
やはり、夜は、カンターの向こうの大将とのお喋りの一人酒となる。
何とも、情けないことながらも、これが凡庸な老いたるものが、たどる道筋とため息の毎日を過ごす。
追記 詰将棋の解は次回に掲載。
コメントはこちらから