一旅37。旅先の街。杵築。

私が目指す旅先が、いつも、小さな街になる。
この旅も、小さな静かな城下街、杵築(きつき)である。

この杵築市、人の丸顔を思わせる国東半島、そのアゴに位置する街。八坂川が海にたどり着く守江湾、その際に突き出した杵築城、その城下町である。

未だ観ぬ街は、良いもの。
この街、ほんの2、3時間もいれば隅々まで知り尽くしたと思わせる程の小さい街。

とりたてて立派な古跡や歴史的な建物などが、有るわけではないが、その見事な街並みに魅せられる。

この街を、魅了ある街に仕上げているのは、二つの武家屋敷街を一直線に結ぶ二つの石階段坂、酢屋の坂と志保屋の坂である。

酢屋の坂を上がりきった左右に、立派な武家屋敷が立ち並ぶ。それらの屋敷を囲む土塀は、あちこちとはげ落ちているその様が、風情ある通りに仕上げている。

その屋敷のご主人であろう老人が、朽ち落ちそうになる壁下を走る溝沿いに生える、草を熱心にむしり取っていた。

この朽ちる壁の修復は、”どうされているか”と尋ねてみた。

この通り全体が文化財指定をされており、壊すことも可なわい。では、修復と思うが、それが大ごとで、思いの外費用が掛かる。

そこで、文化財保護法政を頼り、政府援助をお願いすることになるが、その手続きが大変。その上、1、2割は自己負担となる。
それの負担が度かさるとと、大きな嘆息を漏らしていた。

そうした通りに、小綺麗に修復した一軒の屋敷が、歩き疲れた旅人たち相手のカフェを開いていた。

杵築藩では、茶の湯の文化が、家臣の間で愛されていたと言う。この屋敷でも、当時、たびたび茶会が開かれていたに違いない。

綺麗に手入れが届いた庭を眺めながら、茶菓子を口に運び、ふっと、当時の様に思いを走らせた。

こうした屋敷を維持するには、こうした工夫も必要なのだろう。

もう一つの坂、酢屋の坂を上りはじまた折、5、6年の小学生と思える一人の男子が、剣具を背負い、先の武家屋敷に消えた。

サッカーではなく剣道を選んだこの少年、武家の血筋を色濃く流れているに違いない。

私の旅には、こうした神の悪戯とも思いえる出会いが、私を待ち伏せしている。

この酢屋の坂の上から、2軒ほどの武家屋敷の脇を通り抜けた先には、展望台が設けられており、間近に、杵築城を望んだ。

この街を忘れ難きした、もう一つの出会いがある。

この二つの武家屋敷に挟まれた谷あいに走る道、今は、まだらながら商店が店を並べている。恐らく、この道こそ、家臣たちの杵築城へ登城するための道だったのだろう。

その道沿いに、日本列島を組まなく歩き日本地図を最完成させた伊能忠敬が、逗留したと言う商家を見つけた。

私の旅も海沿いを走る。この旅が、時代を超えて伊能忠敬とクロスする幸せな旅となった。

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