“おはようございます!”
朝のウォーキングで出かけるエレベーターの中での、5歳くらいの少女の挨拶である。今朝は幸せな出会いをした。
少し恥かんだ笑顔のお母さんが、閉まりかけたエレベーターのドアを押さえて会釈する。思わず笑顔がこぼれた。
こうした挨拶とちょっとした気遣いは、西洋人では子供でもするのだが、悲しいことに、この東京ではなかなかお目にかかれない。それだけに、今朝は嬉しい。
こんな日は、幸せが重なるようだ。
前方から近づく危険を孕んだ日傘を見つけ、急遽、道端一杯に体を移しての緊急避難。その瞬間、日傘が軽く傾き、すれ違う
二人の間に気持ち良い風の道ができた。思わず、笑顔が溢れる。相手からも笑顔が戻ってきた。あぁ、江戸時代からこの日本では当たり前であった、仕草“肩引き”である。
そう言えば、先日も嬉しい現代版肩引きに出会った。
混雑を極めた地下鉄で、バックパッカーが体の前にバックを抱え、周りの人々への気遣いをしていた。それも、我ら同胞ではなく若者であった。人を笑顔にする思慮深い作法である。
だが、今、江戸時代の作法では対応出来ない新しい事態が起こっている。
二宮尊徳をも凌ぐ勤勉さで、老弱男女が歩きながらスマホに顔を埋め、瞬時を欲しみ仲間に、仕事相手に連絡を取り合い、さらには、世の中の情勢に目を走らせているのである。
この人たちは、当然、前方には気が回らない。“肩引き”どころか、相手も巻き込んだ正面衝突である。この衝突の危険を避ける手立ては、暇を囲っている、スマホとは馴染みの薄い我ら老いたる者の務めとなる。
一時は、無精者の私、高々と咳払いをする少し簡便な術を使っていたが、この術の成功率は、人込みではかなり低くなる欠点があった。
今、私は、彼らの動きをあらかじめ注意深く観察し予測して、素早く避け逃げる手段を講じている。この逃げ避ける行為で衝突を避け、多い時は日に5、6度も これを繰り返すことで、老いを遠ざけるには程よい刺激と運動になっている。
意識的ではないのだろうが、若者が与えてくれた有難い贈り物と密かに深謝しているのである。
緊張を生んでいる都市生活での無視、無関心で埋まった日常生活空間での気持ち良い朝の“おはようございます”の挨拶、ことさら、こんな小さい当り前のことが、私の一日のスタートを気持よいものにしてくれる。
しかし、素直には喜べない幸せである。
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