一幸106。いつものように。Like Always。

この10年の、いつもの朝。
今朝も、いつものスタバのいつもの席で、“いつものように”本に目を落としPCに向かう。

そんな時間にも飽き、あくびを堪えながらこっそりと背伸び。
手にコーヒーの温かみを感じながら、目の先に広がる小さなドラマに、ぼんやりと目を向ける。

仕事の準備に忙しい男、うたた寝を始めた男、資格試験の備えに集中している女性、忙しく朝食を摂る若い者、子に勉強を強いる母親が、目に入ってきた。

そうした先に顔見知りを見つけ、目で会釈を交わす。

こうした小景を観るではなく見ていた今朝、何の脈絡も無く、映画The Equalizer イコライザー”の主人公と、自分とが重った。

主人公のデンゼル・ワシントンは、寝付けない深夜、いつものダイナーで、亡くなった妻が読破を果たせなかった100冊のリストに従って、“いつものように”彼独特の儀式にのっとって本を読み始める。

どうやら、私のスタバ通い、彼と同じように引退後の生活にリズムをつけ、心と体の均衡を保つ、私の イコライザー”になっている様だ。

郊外に住む友は、妻と連れ立って、武蔵野の林に早朝の散歩に出かける。また、他の友たちも、一人はラジオ体操、一人は犬との散歩、一人はダイニングテーブルに広げた新聞を丹念に読む。

さらに、故郷に戻った友に至っては、鶏を起こしながら夜明け前に、散歩をしていると、便りが来た。そう言えば、毎朝、一先ずゴルフ・クラブに駆け付ける友もいる。

こうした朝の “いつものように”が、彼らのイコライザーとなっているに違いない。

鮭は、産卵を終えると死を迎え、カマキリに至っては交尾を終えたオスはメスに食われ果てる。ほとんどの動物は、これ程の壮絶さはないが、老いの期間が極端に短い。

だが、人は仕事から退いた後の10数年は、若者と変わらない体力と精神を維持し、更に、その後の10数年も、五体無事で生き抜く健常人が多い。

我らは、うっすらと意識にあった死までの年数を、遥かに超えて生き延びそうである。

だが、頼りにしていた友たちは、郊外に故郷にと去り、年々連絡が途絶え始め、長い日中、宵を、ひとりで過ごすことが、年々多くなってきた。

そうした長い日中の、そうして夕刻に、友を伴わない自分ひとりで満たすものを探し出し、そうした単調な時間を、“いつものように”を静かに過ごす。

どうやら、これが老いたものたちの常態のようである。
そうこうしている内に、やがて、耳も頭も老い心身も綻び、この世の出口が見え始める。

そうなれば、しめたものだ。
“いつものように”からも、さっさと、おさらばすれば良いのだろう。

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