一幸109。“昔は”ちょっと、老老徴候。

久しぶりに、友たちと銀座和光前で待ち合わせた。

友の一人が、開口一番、改装中のビルを指差し、“昔は”と話し始めた。彼の目の先には、改装中らしく工事テントに覆われた三愛ビルがあった。

銀座4丁目交差点。
三愛ビルは、和光本店、銀座三越と共に、銀座のランドマーク。その三愛ビルが目に入ると、ちょっと語りたくなる思い出の、二つや三つはあると言うもの。

円筒形で、ガラス張りの地下3階、地上9階建ての三愛ドリームセンター。その友も一階のドトールコヒーで、待ち合わせた思い出でもあるのだろう。

老いた者の生先は短い、それだけに過ぎた時間が永い。
勢い、友たちとの会話が、“昔は”で始まる、思い出に沿ったものになる。

老たる者には、その“昔は”話しが、居心地良いのだ。

だが、引退後の時間が、思いの外には早く過ぎず、その“昔は”話しが、段々と色褪せたものに、なって来始めた。

年を重ねるに連れ、心にほころびが出始める。先ず、記憶が飛び始め、気も短くなり驕り傲慢さも、それに増して、身勝手さがところ構わず顔を出す。

それに連れ、体の変容も、見た目にはそれほどではないが、あちこちに痛みが走り、動きにぎこちなさが出始める。

ますます、醜くなる心歪む体。

歪む体は、ジムでの鍛錬と少し洒落た布でおい被せれば、どうにか人前に出せる。だが、問題は歪む心。流石に、そのまま放置しておくには行かない。

そこで始めたのが、ジムの帰り道での日枝神社詣り。心の崩壊を、今少しの容赦をと神の恩寵に縋ってみる。

だが、やがては体に綻び、それにつれ、頭もボケ始めあれこれも“記憶にありません”と、身も心ともに大気に溶け込む。

“今も”いよいよ往事茫茫。

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